国語
2006年10月14日アルバイトで国語を教えている。小学生なので、何事にも知識は未熟だが、未熟であることが良しとされている世界は可能性に満ちていると感じる。興味を持つ幅も、知りえることもこれからいかようにも出来る。国語は結局総合学習なので、理科も数学も社会も生活も未来も過去も自己も他者も芸術も全てが詰まっている。私は理科が好きだったから、教材には子供用の科学絵本などを用いたりしている。工作も実際に行う。そういう私という要因が彼の持つ興味の振り幅の限定要因となっていくのかもしれない。可能性に満ちている、というのは私にとって羨ましい状態ではあるが、ポジティブな面だけではないようだ。彼は目の前で繰り広げられる様々な話題に食いつくような‘引っかかり‘を持っていない。全て受動的に流すという技術が既に身についている。自分の過去を見るような思いがする。自ら選び取る対象が見えてこないと、国語の授業は進まない。漠然と面白くないものを見て、聞いて、定型文を用いた文章を書き連ねることが出来るようになっても、そのような表層のみの読み書き能力ならば学校でいずれ訓練することが出来るのだ。技術はすぐに身につく。思考力は、自ら求めて考えるという態度がないとなかなか結実しない、というのが最近の実感である。わざわざ学校の外でお金を払ってそれを獲得させたい、という親の期待はよく理解できる。
私はプロフェッショナルの教育有資格者ではないし、お金を取るための教育屋でもない。彼という個人に対してアプローチすることは自分を育てることにも繋がっていて面白く、真摯な態度で場を作ろうという意識に繋がる。アルバイトという一種の商売ではあるが、お金のことだけではない充実感があることはそれ以上の利益であると感じる。
自分の未熟時代には、言葉の間違いを正され、まとまった名文と呼ばれるような文章を精読することばかりが実践された。テストの点数は良かったが、多面的な視点や綿密な思考力という点ではあまり訓練されず、大学に入ってから非常に苦労している。訓練は退屈なものだが、怠ってはいけないものだということが日々実演されている。この題名でこれだけつまらない文章を書くことが、なによりの訓練不足を象徴している、という自己反省である。
私はプロフェッショナルの教育有資格者ではないし、お金を取るための教育屋でもない。彼という個人に対してアプローチすることは自分を育てることにも繋がっていて面白く、真摯な態度で場を作ろうという意識に繋がる。アルバイトという一種の商売ではあるが、お金のことだけではない充実感があることはそれ以上の利益であると感じる。
自分の未熟時代には、言葉の間違いを正され、まとまった名文と呼ばれるような文章を精読することばかりが実践された。テストの点数は良かったが、多面的な視点や綿密な思考力という点ではあまり訓練されず、大学に入ってから非常に苦労している。訓練は退屈なものだが、怠ってはいけないものだということが日々実演されている。この題名でこれだけつまらない文章を書くことが、なによりの訓練不足を象徴している、という自己反省である。
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